【短編】とじようの現実郷

エッセイと俳句。 最近はたまに小説。 人質を解放してください。

ほかす(ステル)

 アルバイトでフライドポテトを揚げた。

 ポテトが嫌いという人は珍しく、極小数やと思っているのだがどうやろか。

 アルバイト先で販売されているフライドポテトは、ライバル店の皮がついていてホクホクとした半月型のものではなく、The フライドポテトと言える細長い形をしている。

 そんな老若男女、有象無象、魑魅魍魎、みんな大好きなフライドポテトは売れまくり、ストックが無くなり待ち時間が発生することもあるほどの人気である。

 誰もが見た事のあるポテトの箱、スナックケースにポテトを入れる。スクープと呼ばれる専用の器具でフライドポテトを豪快にすくい、スナックケースに落とすように入れていく。差し込んでいくようなイメージである。

 しかし、時間帯によってはお客さんがまばらになり、作りすぎたフライドポテトは、全ての飲食店がそうであるように、余ったものは破棄しなければならない。ボーナスタイムは長くは続かない。

 一定時間を過ぎ、ボーナスタイムを終えたフライドポテトはスクープですくい上げ、ゴミ箱に捨ててしまう。すくい上げたそれは、ちょうど砂浜で両手に優しくすくい上げた、きめ細かいキラキラした砂のような重さをしている。それを掃除当番が靴箱やった時に、小さな箒でかき集めてちりとりに掃き入れた、砂場や運動場のものであろう砂を外に捨てるように、ちりとりのようなスクープを右腕斜め下に突き出し、その勢いでゴミ箱に入れる。突き出した余韻のまま、右手の力を抜いて、なんの感情もないふりをしながら視線を下に落とす。両手が脱力している。

 誰もがそうであるように、「食べ物を粗末にするな」と教えられてきた。

おとんに「嫌いな食べ物でも、ちゃんと食べなさい」と言われたし、

おばあちゃんには「ご飯粒を残すと目が潰れる」と言われた。

 担任の先生も一口も口をつけていない切り干し大根を残すことを許さなかった。きゅうりの酢の物も。

 

 食べ物を粗末にすると、多方面からバッシングを受けるイメージがあるが、特に他人が食べ物を残していてもどうも思わへんし、とやかく言う方がおかしいと思うんやけど、この話は置いとこう。とやかく言われそうやし。

 

 「食べ物を粗末にするな」という教育を受けたからか、アルバイト中であっても、食べ物を廃棄する時には、悲しいというか、寂しいというか、愛しいというか、恋しいというか、良かれ悪かれ心が動かされる。最近の若者やと、これをエモいというのだろうか。なんでもエモいエモい言うな。食べ物捨てた時がいちばんエモい。エモ。

 

 一般人も、大学生も、高校生も、小人(しょうにん)も、シニアも大好きで、私自身も大好きなフライドポテトを廃棄するのは物凄く心にくる。狂う。狂おしい。

 まだ食べることの出来るフライドポテトが、サラサラとスクープから滑り落ち、ゴミ箱に入り食べ物から廃棄物へと変わる。悲しくて寂しい。フライドポテトはツルツルで分厚いビニールのゴミ袋に当たり、高い音がなる。右手に持ったスクープから滑り落ちるその感覚は重さから解放されたからか、滑り落ちる快感からか、何故か心地が良く感じる。ここに愛おしさと恋しさがある。

 大掃除や断捨離の時のコツとして、それを見た時に、ときめくかときめかないかで捨てるか捨てないかを判断するという有名な話がある。フライドポテトにときめきまくっている私は、今日もフライドポテトに恋をして、破棄する度に擬似失恋に陥っている。

擬似失恋に陥るのはこの時だけではない。

例えば、ポイ捨てである。

ポイ捨てしてる奴最低!とか

砂浜にうちあげられたゴミが多すぎる!とか

ビニールゴミが環境を汚染している!とか

そういった話に着地するつもりは無い。そんなおもろないオチではない。

 初めてポイ捨てした時のことを覚えているだろうか。

 オカンがおる。オカンはちょっと変わった人で、昔、オカンにポイ捨てをしろと教わった覚えがある。記憶違いだと思いたいが。記憶違いじゃない気もする。記憶違いじゃない可能性の方が高い。

 小学生の頃、当時はオカンのことをママと呼んでいた私とママとのふたりで、世界で一番有名なロリポップキャンディを頬張りながら、モモの木の先のブドウ畑の横を歩いていた。果物が鳥などの動物に鷲掴みにされて持っていかれたり、食べられたり、傷つけられたりしないように、畑全域にきめ細かい青いネットが張られている。青いネットからうっすらと見える美味しそうな果物たちを見るのが好きやった。

 畑の土と果物の香りを吸い込む。それと同時にスーパーのお菓子売り場で、何度も包装のデザインと名前を確認ながら探し求めて、やっと見つけたプリン味のキャンディを味わっていた。スーパーを出てすぐに舐め始めたキャンディはみるみる小さくなり、舐め終わってしまった。楽しい時間は長くは続かない。ボーナスタイムは長くは続かない。

 私とは違い、飴をすぐに噛み砕くママはもっと前に食べ終わっていた。舐めると言うより、食べるという表現がしっくりくる。ママのボーナスタイムはだいぶ前に終わっていたことが伺える。

 ママと私の右手にはプラスチックの棒だけが残っていた。親指と人差し指でプラスチックの棒を転がす。かたくて曲がることが無く、先に小さな穴が空いているプラスチックの棒は、まがい物や類似商品ではなく、「本物」のロリポップキャンディを食べ終えたことを表していた。

 プラスチックの指で転がし、棒を眺めていると、ママが畑の青いネットのすぐ手前にある水の流れていない、底の黒い用水路にプラスチックの棒を投げ入れた。そして私にも、

「もう、ポイし〜」

と私の顔から用水路へと視線を落とし、再度私の顔を見て言った。

 意味がわからなかった。小学校低学年だと記憶しているが、ポイ捨てがあかんことやとは何となく理解していたので、理解できなかった。考えに考え、何度も言葉を反芻していると。

「はよ、ほかし」

と催促してきた。いや、ポイ捨て催促するやつおらんやろ。

 もう家は目と鼻の先ではあるが、催促されたので仕方なく本物の棒を用水路に投げ入れた。つい先程までプリン味のキャンディがついていて、先に少し穴が空いている一際白い棒は底の黒い用水路で目立っていた。ママの捨てた棒と離れたところに私の棒があることから、私が悩んでいた時間が視覚的にわかった。この時にポイ捨てをしてしまった罪悪感と投げ入れる爽快感でなんとも言えない気持ちになったことを覚えている。初めてのポイ捨ては刺激的であったとも言える。

 フライドポテトを廃棄したり、街中や水面に捨てられたゴミを見ると、そんな気持ちを思い出す。

 途中でも述べたように、地球にやさしい人になるつもりは無い。

 地球にやさしい人を肯定する気も否定する気もないし、地球にきびしい人を肯定する気も否定する気もない。

 

 食べ物を残し、破棄する時やポイ捨てをする時の気持ちを忘れないでいたい。

 

 その時しか味わえない気持ちで、ずっと覚えておくべき感情のひとつやから。

 

 物を捨てた時の気持ちを忘れないでいたい。

 

 物を捨てた時の快感を思い出したくなって、ポイ捨てしたり、意図的に物を捨てたりすることがないようにるためにも。

 

 フライドポテトのフライヤーのタイマーがピピピピと鳴っている。

 網でフライドポテトを油からすくいあげ、余分な油分を落とす。

 ストックしておくためのネットの上に網をひっくり返し、揚げたてのポテトに塩を振りながら思う。

 

 

 作りすぎちゃったな。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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