【短編】とじようの現実郷

エッセイと俳句。 最近はたまに小説。 人質を解放してください。

登りラーメン

中華そばの汁がレンゲに登ってきている。

勘弁してくれ

 レンゲの持ち手に汁が登ってきているという事はすなわち、中に落としてしまったということを表している。登ってきているという表現が適切かどうかは分からないが、斜面になっているレンゲの持ち手をみると、するするとスープに浸かっていくように見える。

 中華そば(醤油)は言われてみれば冷めてきている。空腹だった食べ始めよりも麺をすする勢いは若干衰えてきていたと頃だと言えるだろう。後半戦のために選手を温存する習慣が無い私は、チャーシューやメンマ、ナルトは既に食べてしまっている。つまり、どんぶりの中には一口ちょうだいと求められたら相手が困る程度の麺しか残っていない。

 そんな状態の醤油スープでレンゲの持ち手が濡れている。

 先程まで左手で持ち、適度に口の中の秩序を保っていた、審判とも言えるレンゲ。無機質でマットな色合い、もしくは赤くてテカリのあるレンゲ。それは深めのさじから持ち手までスノーボードハーフパイプのように溝が出来ている。

 

 そもそもなぜレンゲは少し気を抜くとスープの中に落ちてしまうような形なのだろうか。どんぶりに立てかけて置けるタイプのレンゲも存在することは知っている。しかしそのタイプであっても、毎回毎回どんぶりとドッキングしている人間はいないだろう。

 どんぶりのなかに置かず、受け皿に置いたり、お盆の上に置いたりすればいいという人もいるだろう。受け皿はない時があるのでなんとも言えないが、お盆は衛生的に心配であるし、スープで汚れるのは良くない。

ていうか空腹の人間に毎回受け皿にレンゲ置く理性あるか?

動物は空腹の時に凶暴になります。

 

 私は中華そばを食べる時はまずスープから口に入れる。背筋を伸ばして、右手でレンゲをもち、レンゲの底を、川で水切りをする時のように水面に平行にに押し付けて、スープをすくいあげる。360度、全方向からレンゲの中がスープで満たされていく。口を尖らせて息を吹くことはせず、ベロが火傷しないように恐る恐るレンゲに唇を近づける。なぜそのように食べるのかと聞かれれば、

「なんかツウっぽいやん?」と答える。

 

 先程まで親指、人差し指、中指が優しく包み込んでいた持ち手の部分がスープに接触する。麺が少なくなったどんぶりに笹舟のように浮かぶ。こうなったレンゲを救出するのは至難の業だ。笹舟で遊んだあの日の用水路のように流れが激しくないだけよかったと思おう。流れもせせらぎもない茶色い汁の上に浮かぶ笹舟は、風に煽られることもなくただただこちらを見ている。あたかもトッピングのように浮かんでいる状況はどうにかしなければならない。お前はチャーシューやメンマとは違う。

 

しかし私は困っている。

 

 左手の人差し指と親指を使って取り出そうにも、醤油味のスープで指が汚れる。

指が醤油味になるのだけは避けたい。

手が汚れるのだけは避けたい。

 指や爪に付着した汚れやエキスがスープに溶けだしてはまずい。まずくなる。

 箸でつまんで救出を試みようとするが、なんか店員さんとかに見られたらファウルを取られそうな気がする。

 

 いや、元はと言えばレンゲがスープに浮かぶから悪いねん。スプーンやったら、重みで底に沈むやろ?しかも持ち手が長くて支えになるやん。ていうかなんでレンゲはそんな形やねん。ちょっと気抜いたらすぐ持ち手に逆流してくるやろ。そんなんやからビタゴラスイッチで一生ビー玉転がされてるねん。ボケが。

蓮華(れんげ)の花言葉は「心が和らぐ(やわらぐ)」です。蓮(ハス)の花に似ていると言われているように、蓮華(れんげ)の花は見ているだけでほっとするような可愛らしさがあります。

和(やわ)らがんねん。糞(くそ)が!

 

 レンゲはスプーンよりも1度に多くのスープをすくい上げることが出来るというメリットがある。

 スープを一気に飲みたいという人間のエゴが作り出したアイテムなのだろうか。

 ラーメン屋の頑固な腕組みおやじが、お客さんにスープをたらふく飲ませるために作った、もしくは採用したアイテムなのだろうか。

 結局私は恐る恐る中華そばに指を突っ込む。多分これはレッドカードだ。ぷかぷかと浮かぶ笹舟を拾い上げる。もちろん指は濡れ、せっかく救出したのに醤油味になって一発退場になったレンゲを眺めて、ため息をついた。

れんげの持ち手にスープが上がってくるような心地や。