【短編】とじようの現実郷

エッセイと俳句。 最近はたまに小説。 人質を解放してください。

完全めし

 

 

もずくなんて見た目は気持ち悪いし臭いも強烈だから食べられたもんじゃないと思っている、と早口で言った。気持ち悪いということを強調したトーンで。

さらに続けて、昔妹がフローリングに滑らせて部屋中がすごい臭いになった、ということも付け足した。

 

「言い過ぎじゃない?」と露骨に不機嫌な態度で言われた。

もずくが好きな人もいるのだから、そういうことを言うのは気分のいいことでは無いと言う。

 

いやいや、別に私がもずくを嫌いだろうがそれの嫌いな部分を語ろうが自由やないか。第一もずくが好きな人って誰やねん。もずく好きなやつなんかおらんねん、気持ち悪いな。ほんでふわっとさせてるけどそれ自分のことやろ。機嫌悪なってるやん。

好きな食べ物を貶されたくらいで不機嫌にならないで欲しい。機嫌が悪くなる、怒るのは何かしらもずくに特別な感情があってそうなっているのだと思うのだが、

その程度の愛でもずくの代表を背負わないで欲しい。

もずく代表なら貶されても機嫌を悪くせず、逆に魅力を語るくらいであって欲しい。

 

トマトが一番好きである。

トマト代表なのである。

トマトが嫌いな人間が多くいるのは知っているし、嫌いな理由もわかる。昔理系風の男がテレビで、プチトマトは眼球を食べているみたいだから嫌だと語っていた。確かに言われてみればそうだし、かなり気持ち悪いが、その程度では私のトマトが好きな度合いは変わらない。

むしろ自分の好きな食べ物は嫌いな人が多い方がいいという話もある。数人でご飯を食べに行った際に、トマトが入っているサラダが出れば、優先して貰うことができるし、その仕組みで言えば、もっと大きな枠組みで見ても、生涯で自分に回ってくるトマトの数が多くなるはずである。

 

 

幼い頃からの疑問がある。トマトが嫌いな人でも食べられる品種。トマトが嫌いな人でも飲めるトマトジュース。トマトに限らずだが、誰しも一度は苦手な人でも食べられることを売り文句にしている商品を見聞きしたことがあるだろう。

もし仮に、トマトが嫌いな人が、トマトが嫌いな人でも食べられる品種を食べることが出来たとして、それはトマトが食べれるようになったのではなく、トマトが嫌いな人でも食べられる品種のトマトが食べられる人になっただけだと思わないだろうか。

ここからはトマトに限った話になるかもしれないが、元々トマトが嫌いだった人がその品種をこれから毎回毎回日常的に買うという確率は限りなく低いだろうし、普通の品種のトマトが食べられるようになっている可能性も著しく低い。

普通の品種のトマトと苦手な人でも食べられるトマトは全くの別物だ。

トマトを克服するという点においては何の解決にもなっていない。

さらに少し逸れるが、普通のトマトを食べられる人は特別トマトが苦手な人のためのトマトを買う理由は無い。

どこに需要があるんや、その商品はよ。

苦手なもののいい所を疑似体験できるコンテンツとして提供しているのだろうか。

 

苦手な人でも食べられることを売り文句にしている食べ物を食べたことがないし、苦手な人でも食べられるからと言われても別にいいかなと答えると思う。

でも、もずくが苦手な人でも食べられるもずくをちょっと待ってる。