【短編】とじようの現実郷

エッセイと俳句。 最近はたまに小説。 人質を解放してください。

匿名性

 1人で何かをすることに抵抗がない。

 1人でファミレスやバーに行くし、1人で音楽フェスや美術館に行く。リラックマストアも1人で行くことが出来る。

 誰かに1人で来ていると思われても気にしないし、全て自分のペースで事が運ぶからとても快適である。コンテンツに対しての感想を言い合うこともないのがいい。

 その日の気分でお店を決め、その帰りに映画を観たいと思い立ち、その足で向かう。とても充実感がある。

 思ったこと、感じたことを共有したいから誰かと一緒に体験したいという気持ちもわかる。なんなら私もシェアしたいタイプであり、ひとくち欲しいしひとくちあげたい。美味しさやコンテンツの優れた点を共有しなければそれは存在しないことと同義だと思っている部分さえある。

 

 なので別にご飯とか遊びとか誘って欲しい誘わんとことか思わんといて欲しいほんまにお願いやで。

 

 なんでも1人で行くことが出来る私だが、唯一1人で行けないところがある。

 たい焼き屋さんである。

 何故かたい焼きを1人で買うのが恥ずかしい。

 私の知っているたい焼き屋さんには基本的にたい焼き以外のメニューがなく、路面店というのか、国道に沿った歩道に面して店を構えているタイプのやつだ。人や車、自転車が行き交うその店の前で立ち止まっているやつは確実にたい焼きを狙っている。それが、その心情が丸見えでなのが恥ずかしいのだと思う。私が実際にたい焼きを食べたいと思っている時に、周りの人間は私がたい焼きを食べたいのだろうと確実にわかる。たい焼き屋さんにはプライバシーがない。

 

 たい焼き屋の前で財布を出しているやつはどう考えてもたい焼きを買うのである。

 

 普段生活していて甘いものが食べたい時、ちょうどたい焼き屋さんがあって食べることがあるだろうか。なかなか低い確率だと思う。何か食べたい場合にも「たい焼きでいいか」と、妥協でたい焼きを食べることはあまりないだろう。偶然通りかかっても買う確率は少ないと思う。

 

 たい焼きを買う奴はわざわざたい焼きを買っているのである。

 

 そんなこと耐えられない。

 

 

 他の似たようなスイーツ(?)と比較してみよう。

 たい焼きと似たようなものと言えば御座候がある。(今川焼き回転焼き、大判焼きなどとよばれるもののお店)御座候は余裕で買える。確定で今川焼きを買うという点はたい焼きよりもプライバシーが守られていないと言えるだろう。しかし、御座候は基本的に並んでいるので、周りの人の私に対する目が、あ、人気の店に並んでいる人がいるな、という認識に変わる。僕の知っているたい焼き屋は並んでいないので、並んでもない店にたい焼きを買いに来ているという人になり、わざわざそのお店を選んで買いに来ているという側面がより一層強くなってしまう。それに加えて、たい焼きは御座候よりも見た目がポップすぎて(歌にされるくらい)路上で食べる時に恥ずかしいのもある。

 しかも並んでないということはすでに数十分前に出来たたい焼きを提供される可能性があるということなのでその点も買えない要因である。

 たい焼きという食べ物はその他の食べ物と性質が違いすぎるのではないだろうか。

 

 これまで言うてきた問題も、1人でなければ全て解決される。

 そういうわけで、たい焼きを一緒に買いに行ってくれる人間を探しているのです。

 

遊戯王

あいつはレアカードを兄にあげようと呟いた。あいつとその兄は喧嘩ばかりしているイメージだったが、自分のお小遣いで買ったパックに入っていたそれをあげるらしい。

兄弟のいないもう1人の彼は理解できないと言った。自分で買ったものなのだし、価値のあるものを人にあげるなんて信じられないと。

 

私は彼の気持ちがわかった。普通に考えると価値のあるものをすぐに誰かにあげたりしない。

 

私はあいつの気持ちがわかった。兄弟のいる人間としては兄弟に喜ばれたい、認められたいという感情があるし、与える喜びを知っていた。

 

当時は言語化できず、彼には「わからんやろうな」などと言ってしまったが、兄弟愛と与える喜びが入り交じったあたたかい行為であり、最大級の好意なのである。

兄妹がいて良かったと思った。

なんか新聞配達に投稿したやつ

眠れない夜がある。それは誰もがそうであるように、暗くて、不安で、憂鬱なものだ。秒針と天井を交互に見つめ、前髪をかきあげる。眠たくない。指の爪を見つめ、寝るということについて考える。この世界にはもう自分しかいないのだ。次第に考えることの規模が大きくなってゆき、宇宙人や陰謀論に怯える。まだ眠れない。たいして好みでもない柄の布団に挟まれながら、次の日の予定について考え、より暗い気分になる。静かすぎる窓の外はもうだんだんと明るくなってきており、まだ誰も吸っていない空気が充満しているのだろう。罪悪感と焦燥感に押しつぶされそうになる。そんな日にいつも私を救ってくれる音がある。それは新聞配達のバイクが疾走する音。人類滅亡まで考えていた私は、朝刊を配るバイクの音で安堵する。新品の空気を切って走るバイクの音は心地よく、地球には自分以外の人間がおり、今も働いているということを実感させる。新聞配達をしている人のおかげで、今日も私は眠りにつけそうだ。

練習

この逆剥けはもう手遅れだと思った。

もうこの真っ白な空間に来てからしばらく経つ。清潔に見えるが、本当のところどうなのか分からない雰囲気のこの病院は、特有の匂いで満たされている。ここに来るまでにすれ違ったのは老人ばかりで、いかにもその辺の病院という印象を与えた。

ベッドに座る彼、そのそばのテレビ台にはヤンキー物のコミックが置いてあり、院内での途方のない時間とページをめくる姿を想像させた。

生まれてこの方入院をしたことがない私は、病院という場所にある種のロマンを感じていた。見慣れない器具たち、テレビカード、独特の匂いを吸ったシーツや椅子、その空気で成長したであろう観葉植物。何より、夜の病院を想像すると、妄想は無限大だ。幽霊が出るかもしれないし、何か怪奇現象が起きるかもしれない。とにかく、非日常を味わえることにワクワクしていた。

彼のベッドに、白い服を着た人がやってきて薬の説明を始めた。重症という訳では無いのだが、手術を行ったので、痛み止めを処方するというようなことを言っていたのだと思う。私はその間自身の人差し指の爪を見ていた。非日常を少しでも味わえると足を運んだ病院は、既に日常に寄りつつあった。

彼にそろそろ帰る旨を伝え、支度を済ませ、病室を後にする。

手を振る僕の人差し指の先は荒れており、彼の人差し指にはグルグルと入念に包帯が巻かれていた。

 

 

ポテ投げ(ほかす(ステル)公募投稿版)

アルバイトでフライドポテトを揚げた。
フライドポテトが苦手という人は珍しく、極少数だと思っているのだがどうだろう。そんなフライドポテトも悲しい結末を辿ることがある。
アルバイト先で販売されているフライドポテトは、ライバル店のように皮がついていてホクホクとした半月型のものではなく、ザ・フライドポテトと言える細長い形をしている。
そんな老若男女、有象無象、魑魅魍魎、みんなが大好きなフライドポテトはボーナスステージであるかのように売れまくり、ストックが底を尽きて待ち時間が発生することもあるほどの人気である。
スナックケース、誰もが見た事のあるあの箱にフライドポテトを入れる。スクープと呼ばれるちりとりのような形の専用の器具でフライドポテトを豪快にすくい、スナックケースに差し込んでいくようなイメージで入れていく。このままでは豪快に入れすぎていて不格好なので、指で1本1本立たせていき、見栄えを良くする。この工程を終えると、誰もが想像するようなフライドポテトが出来上がる。出来たてをお客さんが食べる姿は愛おしい。
しかし、時間帯によっては客足が悪くなることもある。作りすぎて売れずに余ったフライドポテトは、全ての飲食店がそうであるように、廃棄しなければならない。ボーナスタイムは長くは続かない。
一定時間を過ぎたフライドポテトはスクープですくい上げ、ゴミ箱に捨ててしまう。すくい上げたそれは、砂のような重さだ。掃除当番が靴箱だった時に、小さな箒で一箇所に集めて、一気にちりとりに掃き入れた、砂場や運動場のものであっただろう砂。それを校庭に捨てるように、スクープを右手で掴み、腕を斜め下に突き出してその勢いでゴミ箱に入れる。フライドポテトはサラサラと落ちていく。突き出した余韻のまま、右手の力を抜いて、なんの感情もないふりをしながら視線をゴミ箱の底に落とす。本当は色々なことを感じているのに。両手が脱力して棒立ちになる。
誰もがそうであるように、「食べ物を粗末にするな」と教えられてきた。
おとんに「嫌いな食べ物でも、ちゃんと食べなさい」と言われたし、ばあちゃんには「ご飯粒を残すと目が潰れる」と言われた。
担任の先生も一口も食べていない切り干し大根を残すことを許さなかった。きゅうりの酢の物も。
「食べ物を粗末にするな」という教育を受けたからか、アルバイト中であっても、食べ物を廃棄する時には、悲しいというのか、寂しいというのか、愛しいというのか、恋しいというのか、どれが正しい表現なのか定かではないが、とりあえず、良かれ悪かれ心が動かされるのを感じる。最近の若者だと、これをエモいと表現するのだろうか。私にはわからない。
一般人も、大学生も、高校生も、小人(しょうにん)も、シニアも大好きで、私自身も大好きなフライドポテトを廃棄するのは物凄く心にくる。狂いそうになる。
まだ食べることの出来るフライドポテトが、サラサラとスクープから滑り落ち、ゴミ箱に溜まっていく。ゴミ箱に取り付けられたビニールに触れた瞬間から、フライドポテトは食べ物から廃棄物へと変わる。私は悲しくて寂しいと感じる。胸が締め付けられる。ツルツルで分厚い微妙な透明度のゴミ袋に当たり、清々しい高い音がなる。ゴミ箱の底は半透明の白で、黄色い棒になったそれはこちらを見ていた。
右手に持ったスクープからそれが滑り落ちる際、その感覚は重さから解放されたからか、滑り落ちる快感からか、心地良く感じる。ここに愛おしさと恋しさがある。たまらない。
大掃除や断捨離の時のコツとして、それを見た時に、ときめくかときめかないかで捨てるか捨てないかを判断するという有名な話がある。フライドポテトにときめきまくってキュンキュンしている私は、今日も大量のフライドポテトに恋をして、破棄する度に失恋している。
擬似失恋に陥るのはこの時だけではない。似たような感情になる行為はもうひとつある。
例えば、ポイ捨てである。
初めてポイ捨てした時のことを覚えているだろうか。
オカンがいる。オカンはちょっと変わった人で、昔、オカンにポイ捨てをしろと言われたことがある。記憶違いだと思いたいが、記憶違いではない。
小学生の頃、当時はオカンのことをママと呼んでいた私とママとのふたりで、世界で一番有名なロリポップキャンディを頬張りながら歩いていた。モモのなる木の先にある、ブドウ畑の横を通るルートはいつも通りだ。果物が鳥などの動物に鷲掴みにされて持っていかれたり、食べられたり、傷つけられたりしないように、畑全域にきめ細かい青いネットが張られている。青いネットからうっすらと見える美味しそうな果物たちを見るのが好きだった。
畑の肥えた土の匂いと果物の香りを吸い込む。それと同時に、スーパーのお菓子売り場で、何度も包装のデザインと名前を確認ながら探し求めて、やっと見つけたプリン味のキャンディを味わっていた。スーパーを出てすぐに舐め始めたキャンディはみるみる小さくなり、ブドウ畑の先のキウイ畑に差しかかる頃には舐め終わってしまっていた。楽しい時間は長くは続かない。ボーナスタイムは長くは続かない。余韻という名の喪失感を体験している。
私とは違い、飴をすぐに噛み砕くママはかなり前に舐め終わっている様子だった。ママの場合は舐めると言うより、食べるという表現が正しい。ママのボーナスタイムはだいぶ前に終わっていたことが伺える。
ママと私の右手にはプラスチックの棒だけが残っていた。
ロリポップキャンディの棒は、2種類ある。
ひとつは、柔らかくてよく曲がる紙製のもので、舐め進めているとブヨブヨになってくるタイプ。舌で舐めた時の感覚が不快で、紙の味がする気がして嫌いだった。
もうひとつはプラスチックで出来ているものだ。ツルツルしていて舌触りがよく、舐め終わった後も楽しい。
親指と人差し指でプラスチックの棒を掴んで指の上を転がす。かたくて曲がることが無く、先に小さな穴が空いている妙に白いプラスチックのその棒は、まがい物や類似商品ではなく、「本物」のロリポップキャンディであり、それを自分は食べ終えたのだということを表していた。

その本物の棒が指に触れる感覚を楽しみながら眺めていると、ママが畑の青いネットのすぐ手前にある、水の流れていない底の黒い用水路にプラスチックの棒を投げ入れた。そして私にも、
「もう、ポイし〜」
と私の顔から用水路へと視線を落とし、再度私の顔を見ながら言った。
意味がわからなかった。小学校低学年だと記憶しているが、ポイ捨てはしてはいけないことだとは何となく理解していたので、その言葉の意味がわからなかった。
(え、どういう意味なん?やったらあかんやろ?)
考えに考え、何度も言葉を反芻していると。
「はよほかし」
と言われた。ほかすというのは関西の方言で捨てるという意味である。そう、催促してきたのである。
 もう家は目と鼻の先ではあるが、催促されたので仕方なく本物の棒を用水路に投げ入れた。つい先程までプリン味のキャンディがついていた、先に少し穴が空いている白い棒は底が真っ黒な用水路に落ちた。底なしかのように思えていた水路は真っ白な棒が落ちたことで意外と浅かったことがわかった。ママの捨てた棒と離れたところに私の棒があるということから、反芻し、思い悩んでいた時間を視覚的に捉えることができる。この時に私はポイ捨てをしてしまった罪悪感と投げ入れる爽快感でなんとも言えない気持ちになった。初めてのポイ捨て、母親と行った初めての悪事は凄く刺激的で愛おしくもありながら、愛してはいけない行為だった。
フライドポテトを廃棄したり、街中や水面に捨てられたゴミをみたりすると、そんな気持ちを思い出す。
ポイ捨てを断固反対し、地球にやさしい人になるつもりは無い。  地球にやさしい人を肯定する気も否定する気もないし、地球にきびしい人を肯定する気も否定する気もない。
食べ物を残し、破棄する時やポイ捨てをする時の気持ちを忘れないでいたい。
その時しか味わえない他にはない気持ちであり、ずっと覚えておくべき感情のひとつだから。
物を捨てた時の気持ちを忘れないでいたい。
物を捨てた時の快感を思い出したくなって、ポイ捨てしたり、意図的に物を捨てたり、本当に大切なものを捨ててしまったりしないように。
フライドポテトのフライヤーに取り付けたタイマーがピピピピと音をたてている。
網でフライドポテトを油からすくいあげ、余分な油分を落とす。落ちた油が跳ねて、泡が軽快な音を刻んでいる。
油をきるネットの上に網をひっくり返し、揚げたてホヤホヤのポテトに「の」の字を描くように塩をふりかけながら思う。
―――作りすぎちゃったな。