【短編】とじようの現実郷

エッセイと俳句。 最近はたまに小説。 人質を解放してください。

蔵入りダークサイド(閲覧注意)

この記事は昔書いたけどやばすぎて非公開にしてたものです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

人の顔を触りたい。

顔を触るまでその人が本物なのかわからない。

実はその顔は作り物で、私が触った途端に崩れ落ちる可能性もなくはない。

今思えば、小学生の頃から人の顔を触るのが好きだったかもしれない。

鼻や頬、眉間など普通に生活していると触られることがなく、触ることも無い部位に触るのが面白かったし、そんな少しぶっ飛んだ行為がおもろない?と思っていた。

ミニバスの試合の帰り道、車内でなんの脈絡もなく、友達の顔をティッシュで拭いた時は傑作だった。

 

 

 

人の顔を触りたい。ビンタがしたい。

なにも私はヤバめのサディストですと言っているのではない。

人は物事を主観でしか見ることが出来ない。客観的に見るといっても、限界はあるし、主観の中の客観である。

人と同じ映画を見て感動したといっても、全く同じ感動ということはまず有り得ない。

価値観の近い友人や家族、恋人と共に、マラリアに怯えながらアフリカに行き、大自然を目の当たりにして自分の小ささが情けなくなり、なんだ、私の悩みなんてこの自然に比べればちっぽけな悩みじゃん、帰国したら悩まずに日々を過ごそっと、などと思っていても誰もがアフリカに行ってそう思うわけでない。

 

つまり、共有できる感情は限界がある。

 

全く同じ時を過ごしても、生きてきた環境や考え方の違いでニュアンスが変わってくる。

 

しかし、変わらないものも存在する。

 

それは痛みである。

 

痛みに強いという人もいるが、誰しも人間ならビンタされれば痛いと言うだろう。全く同じ痛みでなくとも、感情的には全くおなじものである。

 

 

 

映画で登場人物がチェーンソーで斬られるシーンがあるとしよう。例えばその殺人鬼はレザーフェイスなどと呼ばれており、怖いお面をかぶって追いかけてくるのであろう。もちろん、我々にはそんな経験はない。お客様の中にチェーンソーで斬られたことがあるっていう方、いらっしゃいますか?

 

 



 

ほぼ全人類がチェーンソーで斬られた経験はないはずだが、そのシーンを見た際に誰しもが痛いと思うであろう。私の場合は目を細めて、いたーい、と言う。

いたーい。

それは恐らく、そのシーンと自分が生きてきて経験したことのある最大の痛みを重ねているからだ。

 

痛みを感じたり、痛いと感じるものを目撃したりしたその瞬間、同じものを見て感じる感動よりも悲しみよりも怒りよりも、他者とのシンクロ率が高い。

痛みが感情ではなく、とても単純な構造のものであるからだと思う。

 

痛みは最も人と共有しやすいものなのではないだろうか。

 

ビンタがしたい。

 

痛みを乗り越えた時人は生を実感する。

痛みがなければ生きている気がせず、自傷行為に及ぶ者もいる。

 

ところで、万物は自分以外にそれを証明する人がいないと、それは無いものと同じだという考えがある。

自分がこれはリンゴだと思っていても、違うかもしれないし、自分だけだと証明することが出来ない。というような内容を学生時代に学んだ気がする。

自分以外に何かしら干渉するものがないと、その物体は曖昧で、不透明で、妙に霧の深い朝にぼやけて見える電信柱のようであるのかないのかわからない。

感情などと曖昧なものこそ、この理論が必要だと思う。なにか共有する相手がいないと、その時々の感情は消えていく一方である。

つまり、人と何かを共有することはその何かを揺るぎないものにすることができると言えるだろう。

 

ビンタがしたい。

 

私が人にビンタをすれば、顔を触ることが出来る。

私が人にビンタをすれば、相手は痛みを感じる。

私が人にビンタをすれば、その人に干渉するものになれる。

 

自分がしたことで相手が痛みを感じる。最も共有しやすいものである痛みを。

 

何が言いたいかと言うと、私が人にビンタをすることで、その人の存在は明確なものになる上、存在だけでなく、感情の面においても共有することができ、生きていることが実感できる。

 

 

ビンタさして

 

人気者だと思ってた

幼稚園の頃、母親が私と接する時と友達の母親たちと接する時の対応が違うと思った。平等に接されていないだとか真面目に相手にされていないと感じでいた訳ではない。何故かそれは自分が情けないというか寂しいというか悪いことのように思えた。特に気になったのは笑い声である。私がとても面白いと思って発したことはニコニコするだけのくせに、母親が大人たちと会話していると、意味のわからないことで皆大声を出して笑っている。

集合写真を撮る機会があり、フィルムカメラを触らせてもらった。片目だけを頑張ってつむり、ファインダーを覗くと、小さな人間が沢山いるのが面白かった。とても夢中になったが、壊すといけないからかすぐに取り上げられた。将来はカメラ小僧やな、などと言い合い、母親たちは僕を見ながら大声で笑っていた。母親を自分の話で大人たちと話している時のように笑わせたいと思った。

クリスマス前にリビングで母親と過ごしていた。

私(21)は言った。

久しぶりにサンタさんに手紙でもだしてみよっかな。

母は大声を出して笑った。めっちゃくちゃにウケた。

 

サラリーマンショック!!

 終電間際の最寄り駅の待合室で列車を待っていた。とても寒い日だった。1人だった待合室に第一ボタンの空いたサラリーマン風の男の人が入ってきた。遅い時間だ、仕事が忙しかったのだろうか。その人は疲れた様子で缶のコーンスープを飲んでいた。何故かその光景がとてもいいものに見えた。すごく美しく、この人の為に世界は回っているのだとさえ思えた。一日の終わりのささやかな幸せなのであろうコーンスープ。決してバカにしている訳では無い。全て勝手な想像に過ぎないが、その人の一日、生涯さえも想像できるようなその場面がすごくいいと思った。人生のなんでもない部分を切りとったようで、人生なんてそんなものが大半なのだと思った。人生というものの全てがその瞬間に集約しているとすら言えるよさがあって、感動したのだ。

 

 数日後25日の昼間、同じ駅の待合室でその人を見た。まさかの再会だ。印象に残っていてメモまでしていたので間違いない。同じ格好で、同僚らしき人と会話しながら、箱を持って待合室に入って来た。どうやら2人はホールケーキの箱を持っているらしく、それについて会話をしているようだった。前にコーンスープを飲んでいた男の人は、ケーキの箱を開け、横からスライドさせるようにケーキを取り出した。食べかけだった。男の人は待合室で同僚と会話しながら、その食べかけのホールケーキにプラスチックのフォークを突き刺し、さらにケーキを食べ進めた。なんか普通にめっちゃ嫌だった。めっちゃくちゃ下品やないか。同僚と話す様子も、いいものではなかったというか、予想していた感じとは違うというか、仲良くできなさそうな感じだった。

 この前に美しくて崇高なものに思えたものはなんだったのだろうか。その男は食いさしだと母親が驚くだろうかなどと口にしている。ケーキを口に入れながら。だまれ、知らんがな、ママと住んどんかい。なんやねん。

人の背景を勝手に想像して自滅したのである。

舌切り雀

舌切り雀って言う昔話、名前有名やけど全然内容知らんくて調べたんやけど。おもろすぎて19時から今までずっと笑ってます。ほんまに何回みてもわろてまう。

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食いすぎやろ。

ほんで洗濯のりなんか食うなよ。おもろすぎるやろ。

そりゃ怒るよ、洗濯のり全部食うたら。やりすぎや。朝から何も食べてないからとかそういう話ではないねん。

朝から何も食べてないからって洗濯のり全部食うな。

ちょっとぐらい我慢しろよ、朝から何も食べてないくらいやったら。ほんで全部ってなんや。すずめのあの大きさの規模感でおばあさんがキレるほど物食ってるんがおもろすぎる。死ぬほど食うてるやん。ほんまにどういうこと。

なんかこの解説のサイトもじわじわくるねん。空腹に耐えきれず、とかいうてるし。このサイトの文体がシンプルにツボなんかもしらんけどやばい。

目を離した隙に全部食うってやりすぎやって。食うんばり早いやん絶対。食うなよ。飯食いすぎ。あかんよそんなことしたら。やりすぎや、すずめ。

https://arasuji-m.com/sitakirisuzume/ 

#すずめの戸締り #新海誠

お参り

 屋台が並んでいた。縁日とかそういうものだったと思う。色々な屋台があり、ワクワクすると言うよりも沢山の色や文字を処理するので精一杯だった。どこかへと続く真っ直ぐな道の両脇に色々なお店が並んでいる。

 手を繋ぐのが嫌いだった。特に両親や祖父母、叔母と出かけると、自分が真ん中で手を繋ぐ。そうすると両手が塞がる。両手の自由がないと閉塞感があるし、ソワソワして落ち着かなかった。

 鳴き声が聞こえた。音のする方にに近寄ってみると、黄色くて小さな鳥が沢山入れられている箱があった。これもお店なのだろうか。

 ひよこつりや。両親はそう言った。

 ぴよぴよと鳴く生き物たちの上で、たくさんの大きな子達が木の棒を釣竿のようにゆらゆらと動かしている。それにひよこ達が食いつくのだろう。しかし、中にいるひよこ達は先端に付いた丸いものには気にもとめず、箱の中を歩き回っていた。

 箱の隅に動かないヒヨコを見つけた。よく見てみると竿の先端を喉を詰まらせたのか、苦しそうにぐったりと横たわっていた。まだ息はある。怖かった。動物の死など体験したことが無いし、ペットも飼っていなかった。店の端でそのような自体が起きているのにも関わらず、店の人やひよこを釣る大きな子達はそのヒヨコに対してなんの反応もない。箱から出してあげて様子を見てあげない店の人が異様に思えたし、遊び続ける大きな子達が不気味だった。両親は可哀想とだけ言い店を離れていった。あのコを連れて帰る子は居ないのだろうと思った。

 その後もしばらくその光景が頭から離れなかった。助けてあげたかったのかどうかはわからない。連れて帰っても育てることは出来ないという現実的なことだけは頭に浮かんでいたように思う。そのコと一緒に逃げたいわけでもなかったし、そのコと自分と重なった訳でもなかった。死というものを初めて強く感じた。それは誰にも見向きもされず、隅に追いやられた孤独なものなのだろうかと想像した。

 

 右手には母親の手が、左手には叔母の手が握られ、ゆらゆらと揺れていた。

 

 

劇場版

人を家に招待すると帰った時の喪失感が耐え難いので嫌だと1年前に投稿した。「おもてなし」参照

 

それとは逆で、グループでどこかに遊びに行った場合には、帰りに徐々に人数が減っていくという現象が起こる。

私はそれがたまらなく好きなのである。

普通別れとは寂しいものであり、楽しかった集まりほど帰りたくないものであると思う。でもそういった別れほど愛おしいと思う。ただ家が好きなだけという部分もあるが、程よい喪失感というか、あの時の空気感が好きである。オール明けだとなおいい。

私が電車で帰宅する時はほとんどの場合、最寄り駅の関係で、最後まで車内にいる。なので一人一人にお別れを言い、半日ズレた人たちの背中を見送る。なんというか、ドラえもんの映画のエンディングみたいな感じと言おうか、単発長編作品にしか出てこないキャラクターへの愛のような、ひと夏作品のような余韻を味わうことが出来るのが好きなのである。遊びは全て劇場版なのだ。

ワクワク感は予告に勝ることはないが、行ったら行ったで余韻があるほどに楽しい。直前にやっぱりめんどくさくなったりすることもあるが、数時間後にはそんなこと全く覚えていない。

同じ日は二度とないなんて安い文言で終わらせたくは無いが、全力で楽しんだ後、愛おしい余韻で皆を見送りたい。